黎明

#明日死なないための嘘を、今日生きているための咎を。
#それを選んだのは自分だと、分かっているから彼女は笑う。
 

 
 
 黎明
 
 誰かが呻く声が聞こえた。誰かの断末魔が聞こえた。
 誰が味方で誰が敵かなんて分からない。
 指先から生まれた炎は血の匂いがした。
 指先から零れた光の雨に血の色を見た。
 
 嫌な夢…。
 寝転んだままセリーヌは窓辺を見る。まだ陽も昇らない時刻のようだった。
 他の寝台では、冒険家や傭兵の女傑たちが寝息を立てている。
 体を起こして、枕元に置いてあった旅荷から肩掛けを探す。羽織ると、音を立てないように寝台を降りた。
 風に当たりに行こうと、扉を開けかけて、思い直したように肩掛けを脱いだ。
 どうせもう眠れない。着替えてしまおう、と。
 同室者たちを起こさないよう、静かに支度を整える。
 先が思いやられますわね…。
 ひとりごちて部屋を出た。
 ラクール前線基地で過ごす最初の夜。
 あんな夢を見たのは久しぶりだ。
 
 表に出ると、どこからか早瀬の音が聞こえた。滝も近いようだ。昼間は騒がしくて気づかなかった。
 何とは無しに、音のする方へ足を向ける。目的の水音は思ったより近く、すぐに見つかった。夜闇に時折、水の流れが光る。
 足元はごつごつした岩ばかりだが、不安定ではない。もう少し近づけるだろう。水に触れられるところまで行ってみよう。好奇心で水べりまで歩く。
 風を切るような乾いた音を立てて、何かが閃いた。ぎくりとして身構える。
 少し離れた足場から、こちらに突きつける、あれは刃の色だ。相手は多分腕が立つ。咄嗟に見取って、護身用の杖を置いてきたことを後悔した。
「誰だ」
 低く鋭い声で問われる。聞き覚えのある声だった。声の主を察して、セリーヌは構えを解く。
「早起きですわね」
「どっちの台詞だ」
 ディアスはセリーヌを見止めると、少し驚いたように、剣を鞘に収めた。
 セリーヌが苦笑しつつ、歩み寄る。
「何をしに来た」
「少し風に当たりに」
「こんな時間にか」
「お互い様でしょう」
 短いやりとりがあって、どちらも黙り込む。
 不快な沈黙ではなかった。
 早瀬の音に紛れて、滝が岩を打つ音が、やけに大きく感じられた。
「時々、嫌な夢を見る」
 不意にディアスが口を開いた。
 一瞬セリーヌの表情が強張る。それを知ってか知らずか、ディアスはやや間を置いて続けた。
「昔、山賊に襲われて死に掛けた。その夢だ」
「そう」
 とだけ、セリーヌは返す。自分のことを見抜かれたわけではなかったことに安堵してから、珍しい、と思った。
 この男とは大して親しいわけではないけれど、あまり饒舌な印象は持っていない。好んで自分を話題に取り上げるようにも見えないし、どういう風の吹き回しだろうか。
「もう負ける気はしないんだがな」
 自嘲するように、ディアスは呟いた。
「それで、眠れないんですのね」
「さあな」
 そう言って長剣の柄を握る。
 刃が閃いて虚空を斬った。何かを振り払うように。
 次の瞬間にはもう鞘に収まっていて、再び、夜の静寂に水の音だけが響いた。
「お前は?」
 訊かれて、セリーヌは怪訝そうにディアスを見上げる。月の無い夜は暗くて、表情がよく見えない。
「俺はもう話すことが無くなった。何か話せ」
 抑揚のない声で、不意にそう言われて、セリーヌは思わず笑い出してしまった。
 ひとしきり笑って、それから気付いた。
 ディアスは自分のことを話したかったのでも、聞いてほしかったのでもない。彼なりに気を使ったのだ。どうしてセリーヌがここへ来たのか、分かっていたから。
 侮れない男。そう思った。
「夜は、怖くて眠れないんですのよ」
 困ったように笑って、何でもない風に、セリーヌは呟く。
「ここは傭兵や冒険者が集まっているから」
 と、そこで言葉を切った。
「よほど恨みを買っているんだな」
 嘆息をついてディアスが言った。さあ、とセリーヌは答える。
「自分が思っている以上には、そうなのでしょうけれど」
 けれどそんなことをいちいち気にはしない。好きでやっているのだから。自分で選んだのだから。
「トレジャーハンターと言うのはみんなそうなのか?」
「どうかしら」
 そうではない人も居るだろうけれど、少なくとも自分はそうだ。今までも、これからも。好きに生きていくということに責任が伴うことはもう知っている。
 それでも。
 いつ寝首を掻かれるか分からなくて、明日生きていられないことが怖くて、きっと明日も同じ夢を見る。眠れない夜が続く。
「もう、慣れたつもりだったんですけど」
 そのことにどこかで少し、うんざりしている自分がいて、セリーヌは深いため息をついた。
 ディアスがセリーヌの腕を掴む。前触れも無く、唐突に。引き寄せられて、セリーヌはされるがまま、抱きしめられる格好になる。
「細いな」
 早瀬の音に混じって、ディアスが微かに呟く声が聞こえた。
「よくこれで生き残ってこれた」
 肩や腰に回された武骨な腕が、心地良いとセリーヌは思った。不覚にも、だけれど。
「卑怯なことならたくさんやってきましたから」
 それを幾らも悪びれてはいない自分に呆れて、セリーヌはそう言った。
 明日死なないための嘘を、今日生きているための咎を、一体いつまで繰り返すのだろう。
 こうして受け入れてくれる居心地の良い腕を、いつまで見つけることができるだろう。
「やめないのか?」
 何気ないディアスの問いは、胸の内を見透かされているような気がして、少し悔しかった。
「やめたら、実家に帰ってお嫁に行かなくちゃいけませんわ」
 冗談めかすと、ディアスが失笑する。
「また随分と似合わないな」
「でしょう?」
 顔を上げて笑ったセリーヌの髪を、ディアスは一度だけ梳くようにして、名残惜しそうに手を離した。
「少し眠った方が良い。いつ魔物が襲ってくるか分からないからな」
 いつの間にか、東の空が白んでいた。夜明けが近い。
「努力しますわ」
 潔く言って、セリーヌは踵を返す。
「大丈夫か」
 ディアスが問いかけた。セリーヌは振り返らない。
「本当は、誰も大丈夫じゃないんですのよ」
 あっさりとそう言ってしまえたのは、弱音でも何でもなく、多分ディアスだったから。
 同じ夜を知っているこの人は、それに気づいてくれただろうか。
「そうだな」
 苦笑まじりに、少し困ったようにディアスは言った。
 誰も大丈夫じゃない。けれど、それでも。
「何とかやって行かないといけないな」
 刃を閃かせて、虚空を斬る。
 満足したように頷いてから、セリーヌは歩き出した。