桜が花を咲かせた日に

#桜とルカとメイコの話。
#桜が花を咲かせた日に、私はあなたに恋をしました。
 

 
桜が花を咲かせた日に
 
 メイコさんと初めて会った頃の話をしようと思う。
 最初の日は冬で、雨が降っていた。
 今日からここで暮らすようにと会社から言われて訪れたのは、社員寮と呼ぶには洒落た立派な洋風造りの一軒家で、それなりに広い庭と、庭に面したサンポーチがあった。
「気に入った?」
 大きな掃き出し窓から庭を眺める私に、メイコさんが問いかける。
「はい、素敵ですね」
 その日はじめて会ったメイコさんは、家の中をひととおり案内してくれて、間取りや設備を説明してくれて、最後にここに私を連れてきた。サンポーチにはラタンのロッキングチェアが置いてあって、天気がよければきっと過ごしやすい場所なのだろう。
「でも今日は残念です」
 冬の雨の日は薄暗いし、何より見た目が寒い。せっかくの庭が殺風景だ。
「春になったら花壇に花が咲くから、雨でも多少見られるんだけど」
 メイコさんが目をやった辺りには、レンガを並べて楕円形にしたアイランド・ベッドの花壇がある。そこからはじき出されたような半端な位置に、若木がすらりと伸びているのが目を惹いた。
「あれは?」
「ああ、あれね」
 お正月に買った啓翁桜だとメイコさんは教えてくれた。まだこの家にメイコさんしか住んでいなかった頃、初めて迎えたお正月に切り花を買って、飾り飽きて花壇の脇に挿したのだそうだ。
「すごい。切り花って育つんですね」
 私が純粋な感想を漏らすとメイコさんは、私も育つと思わなかったと言って笑った。
「でも花は一度も咲いてないのよ。背は伸びてるんだけどなあ」
 ちょうど大人の背丈ほどの若木は、幹はまだか細いけれど、空に向かって広げた枝が、やがて大成してたくさんの花を咲かせる姿を思い描かせた。
「きっと咲きますよ」
「そうだといいね」
 そんな会話をしてから一ヶ月。
 よく晴れた風のない日に、若木は本当に花を咲かせた。
 冬の終わりを告げるような華やかな薄くれないの花を見つけて、メイコさんがとても嬉しそうだったのを覚えている。
「桜、咲きましたね」
 私はサンポーチから外に出て、ホースで庭に水を撒いていたメイコさんに声をかけた。
「うん。びっくりした」
 メイコさんが手を止めて若木に歩み寄る。まだほんのいくつかの花を咲かせたばかりだけれど、来年、再来年にはもっとたくさんの蕾をつけて、やがて満開になるのだろう。
「ルカが来たからかな」
 薄くれないの小さな花に手を添えて、そんなことを言いながら振り返ったメイコさんは、若木が咲かせたその花をひとつ、私の髪に挿して飾った。
「まるで桜の精ね」
 それはキューピッドが放った矢のようなもので、恋に落ちるということの、何と容易いことか。
 その瞬間から私はずっと、十年経った今でさえ、メイコさんに恋をしている。
「今年も咲いたねえ」
 ベランダの鉢植えの剪定をしていたら、メイコさんが部屋から顔を覗かせた。
 十年は色々なことが変わるのに十分な時間だ。
 社員寮だった一軒家は土地ごと人手に渡ってしまったし、そこに住んでいた人たちはそれぞれに新しい生活を初めて、私とメイコさんは二人で暮らすようになった。
 あの一軒家の庭で順調に育っていた啓翁桜の木は、そのまま持ってこれるような庭は残念ながら新しい住まいにはなくて、けれど手放すのも寂しくて枝分けした。鉢植えにして陽当たりのいいベランダに置いたそれが、最初の春から花を咲かせたのは奇跡的だと思う。それから毎年、鈴なりの花をつけて春の訪れを教えてくれる。
「やっぱりルカがいるからかな」
 どこか嬉しそうに言いながら、メイコさんはベランダのボックスベンチに腰掛けた。今日は天気が良くて暖かいから、日向ぼっこにちょうどいい。
「私が桜なら、メイコさんは太陽ですね」
 陽射しを浴びて機嫌がいいメイコさんに思わず口をついて出たそれは、もう十年もずっと思っていたことだ。
 あの日、私を桜の精だと言ったあなたはまるで太陽のように眩しくて、あっという間に私に恋の花を咲かせた。そうしてあなたがずっと私の側にいてくれるから、その花は今でも枯れることがない。
「ルカってさ」
 メイコさんが神妙な顔つきで、カーディガンのポケットに隠し持っていたカップ酒を開けながら呟いた。
「たまに気障よね」
 ただならぬ様子で何を言うのかと思ったら。私をときめかせるのが得意なメイコさんは、逆はそうでもないらしくてときどきこんな顔をする。
「メイコさんに言われたくないです」
 思わず笑いながら言い返すと、メイコさんは納得が行かないのか、そうかなあと眉根を寄せた。
「もう十年も、ずっとメイコさんにときめかされてますから」
「それは凄いわね」
 メイコさんは苦笑混じりに、開けたばかりのカップ酒を一口飲んだ。その一口がなかなか豪快な量だったのは照れ隠しだろう。私のパートナーはときどきこうして、とても可愛いらしい。
 そのままメイコさんはしばらく黙って花見酒を決め込んで、私は桜の剪定に戻った。
「これからもルカに、ずっと好きでいてもらえるように頑張らないとね」
 不意にメイコさんが口を開いた、自分に言い聞かせるような調子のそれが、独り言だったのか私に言ったのかは分からない。けれど私はその一言でますます深く恋に落ちて、メイコさんの望む通りに、それこそ私という存在が無くなるその時までこの人を好きでいるのだろう。
「ずっと好きですよ。十年後も二十年後もずっと」
「ありがとう。私も好きよ」
 そうして太陽のように笑うあなたに、私は今日も恋をしている。