透明な雫

#そんなことはみんな、分かっている。
#大人の振りは楽ではない。それでも大人でいなければならない。
 

 
 
 透明な雫
 
 腰を屈めてうっとうしそうに扉を抜ける長身の男に一瞬だけ目をやって、セリーヌはそ知らぬ顔で手元のグラスをもてあそんでいた。
 入り口から離れた隅の席だ。きっと分からないだろうと思ったけれど。
「珍しいな」
 彼は真っ直ぐこちらに歩いて来てそう言うのだ。
「たまには一人で飲みたいと思う時だってありますわ」
 苦笑交じりに言ってから、失言だったかも知れないと気付く。向かいの椅子を引こうとしていた手が止まるのが見えた。
「座って下さいな、せっかくですから」
 取り繕うのではなく、本当に思ったから言ったのに、彼は椅子の背に手を置いたまま迷っている。
 それが少し微笑ましく思う。いつも偉そうに構えているくせに、意外と人の顔色を覗うようなところがあったりするのだ。
「そんなに気を使っていると禿げますわよ?」
 冗談混じりの言葉に思うところがあったのか、ディアスが仏頂面で前髪に手をやった。思わずセリーヌは吹き出してしまう。
 ディアスは仏頂面のまま椅子を引いて、どかりと座った。向かい合うとセリーヌはますます可笑しそうに笑う。抗議のつもりで睨み付けたが大した効果もない。
「よく笑うな」
 呆れ半分にぼそりと呟く。
「だって可笑しいんですもの」
 何がそんなに面白かったのか、セリーヌは涙目になって笑っている。けれど次の瞬間、不意を突いたように出たディアスの言葉に、思わず真顔になった。
「他の連中はみんな暗い顔をしていたぞ」
 まるで息を捨てるような、疲れた声。
「そうでしょうね」
 他人事のように言って、セリーヌはグラスの中身を一気に空ける。通りがかったウエイターに、同じものを二つと注文する。
 決して飲みやすくはない、度のきつい蒸留酒が運ばれてくるまで、どちらも黙ったままでいた。
「少し時間が必要なのかも知れませんわね」
 ため息をついてセリーヌは言う。新しいグラスを傾けながら。
 無理もないと思うのだ。
 エクスペルは、自分たちが暮らしていた世界はもう無い。
 消滅したと、突然そんなことを言われて、信じたくもなかったけれど。
「みんな気持ちを整理するのに手一杯なんですのよ」
 だから時間が必要なのだ。自分自身を納得させるために。
「お前は、そうは見えないな」
「お互い様でしょう」
 低く呟くディアスの声は感情を覗わせなかったけれど、セリーヌはすかさずそう言った。
 経験として知っているだけだ。多分、彼も。
 昨日まで当たり前のように有ったものが、呆気ないほど簡単に無くなってしまうことが、有り得ないことではないと言うことを。
 自分より幾らか若い、まだ大人になりきれていない仲間たちの前で、途方に暮れた様子を見せてはいけないと言うことも。
「こう言うときってどうしたら良いのかしらね」
 少しおどけた調子で言ったセリーヌに、ディアスは答えなかった。その予想通りの反応に困ったように啜った酒は、当たり前だけれどアルコールの香りがして、辛かった。
 その辛味が心地好いと思う様になったのはいつ頃からだったろう。こんなものを好んで飲む大人が、子供の頃は理解できなかったものだけれど。
「子供の頃って」
 前触れもなくセリーヌは呟く。
「大人はもっと何でもできる人なのかと思っていましたわ」
 理解できないことがたくさんあったし、手の届かないことが山ほどあった。その度に早く大人になりたいと願ったような気がする。
「難しいことを言う」
 ずっと黙っていたディアスが、苦笑いでグラスを呷った。
「そうね」
 セリーヌも苦笑する。
 けれど少なくとも今の自分よりは、もっと色んなことができる、もっときちんとした、人格者だと思っていた。
 難しい。確かにそうだ。
 手元に目を落とすと、グラスの残りがもう僅かだった。知らず知らず飲んでしまったらしい。ディアスが客が帰ったばかりのテーブルを片付けていたウエイターに同じものをと注文する。それから不意に言った。
「何でもできる人のふりをしていればいいんじゃないか」
 淡々と言って、度のきつい酒を旨そうに飲む。
「そうしたらいつか本当になるかも知れない」
「それができたら苦労はしませんわ」
 呆れ笑いでセリーヌは返す。だけど分かっている。
 きっと自分でも気づかないうちに、一つずつ解けていくのだろう。それでも何年か経ってまた、同じことを考えるのだろう。
 その時にそばにいてくれるのがこの人だったら良いと、ふと思った。
「ねえディアス」
「何だ」
「またこうやって、一緒に飲みません?」
 グラスを傾けて微笑むセリーヌに、そのうちな、とディアスが言った。
 タイミングを心得たウエイターが新しい酒を持ってきて、空になったグラスと交換した。
 グラスを傾けて、最初に唇に触れた透明な雫は、やっぱり辛くて、心地好かった。
 何でもできる人のふりをしていればいい。いつかまた同じことを考えるのだとしても。
 そんなことはみんな、分かっている。