海の中の月

#私にだって、怖いと思うことはありますのよ。
#言わなければ伝わらないと、分かっているからこそ。
 

 
 
 海の中の月
 
 最後の夜。
 ナール市長はそう言った。その真意を理解した者は少ない。だが、エナジーネーデで過ごす、と言うことならば皆の考えは同じだ。
 生きて戻っては来れないかも知れない。
 それでも彼らの決意は固まっていた。誰かが行かなくてはならないのだ。この世界を、宇宙を、人々の平和を、守る為に。
 明日で全ての答えが出る。だから最後の夜だ。
 
 刃鏡に映し出された蒼い月が、静かに鞘の中へと消えた。
 長剣を片手に、ディアスはラクアの臨海施設を臨む浜辺に立っていた。
 生きて帰らなくてはならない理由は何だろう。彼は思う。誰かに必要とされるような生き方はして来なかったから分からない。
 そうして、考えるのだ。
 例えば彼女は、自分が死んだら泣くのだろうか。
 負ける気がある訳では無い。剣の状態も悪くない。けれどそれは生きて帰ると言うことには繋がらなかった。戦うこと以外に何も持たない自分にもそろそろ飽きた。
 そんなつまらない男を相手に、彼女が泣くとは思えない。
 細波を眺めていたディアスは、後ろから近づいて来る気配にあえて振り返らずに、その主の名を呟く。
「セリーヌか」
 セリーヌはゆっくりと砂の上を歩いて来ると、冷えますわよ、と、羽織っていた外套をディアスの肩に掛けた。それから、静かに波を立たせている海に目をやる。
「夜の海は綺麗ですわね。海の中に月が浮かぶから、海面が輝いて見えますわ」
「そうか」
 ずっとここに立って海を見ていた自分は、そんな風に思っただろうか。少し羨ましく思えた。綺麗なものを綺麗だと、素直に言えるセリーヌが。
「明日で、終わると思います?」
 不意にセリーヌが呟いた。穏やかな顔をしているけれど、真剣な声で。青みがかった銀色の髪が、月の光を弾いて潮風に舞う。
「どうだろうな」
 言いながらディアスは外套をセリーヌに掛け直してやった。ありがとう、と小さな声を聞いてから、ディアスは続ける。
「いい加減に向こうも容赦はしないだろう」
「私たち、もう会えなくなってしまうかしら」
「さあな」
 ディアスは曖昧に答えて考える。
 セリーヌは時々核心をつくようなことを平気で言う。それは往々にしてディアスにとって居心地の良いものだったけれど、やはり時々ぎくりとする。
 会えなくなる。
 それは彼女にとってどの程度のことなのだろう。
「お前は俺が死んだら泣くか?」
 まさかと笑い飛ばされることを思い、けれど出来れば自分は特別であって欲しいと願わなくもない。
「泣いている私が見たいんですの?」
 そうしていつだってセリーヌはディアスが考えもつかない言葉を返す。
 静かに首を振って、ディアスは答えた。そんな姿は見たくないと、いつもそう思っていて、セリーヌはその通りにいつも笑っていてくれた。
「じゃあ泣きますわ。毎日」
 淡々と言うセリーヌに、いよいよ意を解せなくなってディアスが言葉に詰まっていると、セリーヌはディアスを仰いで笑った。
「泣かせないで下さいな」
「ああ、そうか」
 だから死ねないのだ。きっと。 
 淡い月明かりが、風に流れて来た細い雲に隠れた。
 海は暗くなって、微かな光を飲み込んで波打った。
 でも、とセリーヌが呟く。述懐のように。
「私にだって怖いと思うことはありますのよ」
 ディアスからはセリーヌの表情がほとんど見えなかった。見えないと途端に、表情を持たない声は頼りなく聞こえる。
「あなたに会えなくなることも、多分」
「セリーヌ」
 遮るようにディアスはセリーヌを抱き締めた。
 香水の甘い香り。夜の闇に輝く銀の髪。思っていたよりずっと華奢な肩や腰。それだけでいつも、胸が締め付けられた。
 それは理屈ではなくて、自信があるわけでもないけれど。
「大丈夫だ」
 セリーヌは黙ったまま、頷く様にディアスの胸に顔を埋めた。ディアスはそっとセリーヌの髪に唇を寄せる。
「ずっとこんな風にいられたらいいですわね」
「そうだな」
 それは彼の願いで、祈りだった。
 いつも彼は想った。手放したくない、と。
 気まぐれな雲がまた何処かへ流れて行くと、海面が明るくなった。
 セリーヌが綺麗だと言った、海の中の月が、ディアスの眼に映る。
「綺麗でしょう?」
 彼女が問い掛けるだけでいいのだ。それだけで彼の眼にも同じ景色が見える。
 波の音を聞きながら、そっと伏せたセリーヌの瞼に、ディアスの唇が触れた。
 セリーヌがくすぐったそうに笑う。
「乙女心のわからない人ね」
 悪戯めいた笑顔で、甘く囁く。
「悪かったな」
 拗ねた様な口調で、ディアスは少し強引にセリーヌの唇を捉えた。
 
 ずっと一緒にいよう。こんな風に。
 言わなくても彼女には伝わるから。
 祈るように、胸の内で呟いた。