渓谷に吹く風

#私、あなたのこといけ好かない男だと思っていますけれど。
#セリーヌがディアスをいつからさん付けしなくなったのかという仮説。
 

 
渓谷に吹く風
 
 ディアスが仲間になってくれたのよ、と嬉しそうにレナは言う。おまけに、ディアスがいれば戦力百倍だよ、とクロード。反論の余地も無い。
 セリーヌは風に吹かれる髪をうっとうしそうに手で押さえて、表情だけはにこやかに取り繕いながら小さくため息を洩らした。
 それもその筈だ。初めて出会ったセリーヌの故郷マーズ村で、彼女がディアスに下された評価は一言、傲慢な女、である。
 再びため息をついて、セリーヌは盗み見るようにディアスに目をやった。
「やれやれ、知らないうちに随分好かれたものだな」
 ちょうどディアスがそんなことを呟いたのだ。
 鼻で笑って、ふんぞり返るように明後日の方を向く。その偉そうな態度はどうにかならないものかと思う。
 レナの幼なじみだとは聞いていたが、だからと言って自分に関わりがあるわけでもないし、大して気にもしていなかったけれど、一緒に旅をすると言うことはこの先どうやったって毎日顔を合わせなくてはいけないのだ。ため息の一つもつきたくなる。
 セリーヌは自信家の男が好きではない。
 往々にしてその発言が実行力を伴わないからだ。過去に出会った自信過剰の男たちはみんなそうで、マーズ村でのディアスもセリーヌにとってまさにそれだった。
 一人で行く、誰とも組まない、と散々わがままを通したはずなのに、ちゃっかりレナを連れて行った。確かにレナがディアスと一緒に行くと言って飛び出して行ったのだし、そもそも村の厄介ごとを押し付けられたわけだから、あまり言えたことではないけれど。
 それに傭兵稼業に身を置く者や、事情通の行商人などは大抵彼の名前を知っている。先のラクール武具大会を見ても実力は明らかで、ただ自信家というわけでもないのだろう。
 だから余計に困る。
 嫌いではないけれどいけ好かない、取り立てて興味もないこの男と、この先どうやって付き合っていくか少なからずセリーヌは悩んでいた。このラクール前線基地へ魔物迎撃の援軍としてやって来て、偶然にも目的を同じくするディアスの姿を見つけてからずっと。
 セリーヌがあれこれと考えを巡らせていると、見張り台の方から兵士の叫び声が響いた。
「魔物だ! 魔物が攻めて来たぞ!」
 兵士達が一斉に各々の武器を身構えて顔を強張らせる。間髪を入れず、見張り台を稲妻が襲った。
 落雷の呪紋!
 それが敵の放った紋章術であることに逸早く気付いたセリーヌは、息を呑んで空を睨んだ。鳥ほどの大きさしかなかった影が、どんどん距離を縮めて無数の巨大な魔物になる。
 嘲笑う様に空を舞う魔物と、兵士たちの交戦が始まった。
 喰い付かれて悲鳴を上げる者、雷に打たれて倒れる者、鋭い爪に引き裂かれて悶絶する者。さほど経たないうちにこちらの劣勢が見え始める。敵は予想以上に数が多く強い。
「随分と頭が回るじゃありませんの」
 舌打ちしながらセリーヌは呟いた。魔物たちは耳障りな鳴き声を立てながら、弓兵や術師を優先的に狙う。飛び道具を持たない剣士や槍使いは翻弄されるばかりだ。
「守りの力よ!」
 魔力の宿った杖を掲げ、魔物たちが放つ紋章術から周囲の兵士を守る。続けて今度は攻撃呪紋。この混戦の中で、誰かが呪紋の詠唱中の隙を庇ってくれることは期待できない。辺りを警戒しながら、敵の攻撃をかわしながらの詠唱は、集中力が削がれて時間がかかる。
 頭上に翼竜の化け物が見えた。不気味に牙を光らせる巨体は、食いつかれたらひとたまりもないだろう。セリーヌは歯噛みした。呪紋はまだ完成しない。
 翼竜がセリーヌを目掛けて急降下する。間に合わないと覚悟を決めた瞬間、閃光が走った。翼竜の頭が胴から離れ落ち、一瞬置いて血飛沫が上がる。
 何が起きたかなど考えている場合ではない。セリーヌは光の呪紋で辺りの魔物を一掃した。
 ディアスがセリーヌを背に庇うように立って長剣を構え直す。
「ディアスさん」
 この状況でよく気がついて、駆けつけてくれたものだ。驚いて、躊躇いがちにセリーヌはディアスの名を呼んだ。
「礼は後にしろ。まずは飛んでいる奴らを叩き落とせ。出来るだろう」
 言い捨てて、降下してくる魔物を切り伏せる。
 偉そうに。けれどやっぱりこの男は強い。
「お任せを」
 セリーヌは短く答えるとそれ以上ディアスに声を掛けることはせずに、矢継ぎ早に攻撃呪紋を魔物にぶつけた。
 ディアスが側を離れないでいてくれたおかげで、詠唱中の無防備な隙を狙われることは無かった。
 
 昨日の敗北に一時撤退したのか、昼時を過ぎても魔物が襲って来る気配は見られなかった。
 セリーヌは手近な岩に腰を下ろして、渓谷に抱かれる景色を眺めていた。谷間を縫うように吹く風が心地良い。
 辺りは静かだ。自主的に見回りをしたり、鍛錬に励む者もいるが、その気力も残っていない兵士の方が多い。
 指揮官はそれを不満に思っているようだったが、仕方がないとセリーヌは思う。思った以上に敵は手強く、こちらの負傷者は多い。逃げ出さないでいるだけでも誉められたものだ。
 こんな状況に、この平和な絵画のような景色は似合わない。苦笑しつつも気晴らしになりそうな気がして、セリーヌはしばらく風に吹かれていた。
 すっと影が差して、誰かが後ろに立つ。
「こんなところで何をしているんだ」
 影の主はディアスだった。
「何も。少し休憩ですわ」
 セリーヌは素っ気なく返したが、ディアスはそうかと小さく呟いてセリーヌの隣に座る。それが少し意外で、少し決まりが悪かった。何を話せばいいのか分からない。
「私に何かご用?」
「いや、特には無い」
「そう」
 これだけで会話が途切れてしまう。セリーヌは困ったようにため息をついた。
「疲れているんじゃないのか」
 少し間があって、ディアスが言う。
 セリーヌは内心で大いに驚いた。ディアスが自分を気遣うなんてまったく予想外だ。
「心配して下さってるの?」
 義理で言っているのだろう、そう思って他意も無く問い返すと、なにやら歯切れの悪い返事で明後日の方を向いてしまった。不機嫌そうな顔で、黙り込んで腕を組む。
 なるほど、この仕草がいちいち偉そうに見えていたのだが、近くで見て何となく分かった。
 口下手なんですのね。
 次に何を言えばいいのか考えているのだろう。
 それなら待って差し上げますわ。せっかくですから。
 いたずら心に思ったことはもちろん言わずに、しばらく待つ。
 何も言わないセリーヌに、ディアスは観念したようにぼそりと呟いた。
「昨日は助かった。マーズの紋章術師は伊達ではないな」
「それはどうも」
 故郷を誉められると悪い気はしない。セリーヌは大人の女の優雅な笑みでその言葉を受け止めた。
「こちらこそ、昨日はありがとう」
 我ながら上出来だと思ったのだ。昨日の戦い方は。それはマーズの紋章術師を信じて守ってくれたこの男のお陰で、クロードみたいに戦力百倍だなんて大げさなことは言わないけれど、側にいてくれると心強い。
 少し悔しい。そう思った自分が何だか可笑しかった。
「私、あなたのこといけ好かない男だと思っていますけれど」
 突然そんなことを言われて、ディアスは怪訝そうに目を細めてこちらを向いた。セリーヌは意味ありげに微笑んで、何か言いたそうなディアスが口を開く前に。
「嫌いじゃありませんわよ」
 自分で言って笑い出す。
「何だそれは」
 ディアスが呆れたように言って立ち上がった。
「あまり無理をするなよ」
 言い残して来た道を戻って行く。
 思いがけずそれが、聞いたことのない優しい声で、一瞬だけれどディアスが笑ったような気がして、セリーヌは面食らってしまった。
「よくわからない人ね」
 セリーヌは一人、苦笑する。
 空は抜けるような青空で、谷間のせせらぎが陽射しを弾いて輝いていた。セリーヌの青みがかった銀色の髪が、同じように輝いて風に舞った。
「ねえ、ディアス」
 もう届かないだろうけれど、涼しげな渓谷の風に乗せるように、セリーヌは呟く。
「今度はもっと、色んな話をしましょうか」