雨空

#あなたの好きな時間。だから、私も好きになれますわ。
#セリーヌさんは雨が嫌いと言うより湿度が高いのが嫌いです。
 

 
 
 雨空
 
 東は僅かに明るくなり掛けていたが、重たい色の雲が邪魔をして、上手く陽を降ろせないでいた。
 窓越しに聞こえる微かな雨音に、セリーヌは目を覚ます。隣で洩れる静かな寝息に浅く唇を触れて寝台を離れた。
 上着を取って窓辺に立つ。まだ当分止みそうにない。
 窓枠に手を掛けると、冷たい風が雨粒を連れて入り込んで来た。飽きること無く雫を受けては滴らせる、庭の秋桜。少し寒そうに揺れている。
「セリーヌ」
 不意に呼ばれて、セリーヌは寝台を振り返る。ディアスが眠そうに目をこすりながら起き上がった。
「ごめんなさい、起こしちゃいました?」
 言いながら窓を閉めて、もう一度外の様子を見てセリーヌはため息をつく。
「まだ止まないのか」
 ディアスはセリーヌの隣までやって来て、横目につまらなさそうな顔をしているセリーヌを覗う。
 雨の日の朝はいつもこうだ。
 セリーヌがつまらなさそうにするから、ディアスも雨は好きではないけれど。
「どうする。行くか?」
 ディアスの視界では、木の葉が頼りなく雨に打たれていた。雨の色をした紋章の森。本当は嫌いじゃない。
「どうしようかしら」
 ディアスと同じ方に目をやってセリーヌは考える。
 たまには親の顔を見に、と実家に戻ったは良いが、折は良くなかったようだ。両親は昨日の夜から所用で出ている。セリーヌ達がマーズ村に着いたのは夕方だったからろくに話も出来なかった。夜半には雨雲が広がって来て、多分今日はずっとこのままだろう。
「たまには悪くありませんわ。部屋でゆっくり過ごすのも」
 セリーヌは退屈な顔をやめて、明るくディアスを仰いだ。
「珍しいな」
 セリーヌがこんな風に笑う、雨の日が。だからディアスも笑い返す。
「腹が減ったな。何か作る」
「あなたが?」
「お前が教えるから大丈夫だ」
 そう言ってディアスはセリーヌの髪に手を触れる。優しい眼差しでセリーヌが笑う。
 止まない雨も晴れない空も、今は心地好く。
 薄紫の秋桜は、その元で咲いている。
 
 結局、調理場に立っているのはセリーヌだ。随分と簡単そうに片手で卵を割る。
「器用だな」
 後ろの円卓で眺めていたディアスが呟いた。
「やってみます?」
 顔だけ向けてセリーヌは言う。ディアスは黙ったまま椅子を離れた。
 卵を受け取るとセリーヌを真似て割ってみる。セリーヌがくすくすと笑い出した。割ったと言うより握り潰したと言った方が近い。
 ディアスはため息をついて殻を投げ捨てた。
「やっぱり慣れないと難しいですわね」
「慣れているのか」
「意外?」
「下手そうに見える」
「失礼ですわね。私だってお料理くらいしますわよ」
 今度はセリーヌがふてくされて、割った卵を混ぜ始めた。ディアスが苦笑を洩らす。
「俺は焼き鳥しか食ったことが無かったぞ」
「そうでした?」
 薄鍋に溶き卵を流しながら、そう言えば、と思い返す。ずっと旅ばかりしていたから、宿に泊まったり野宿をしたり。機会も無かった。
「いつでも言って下さいな。ちゃんと作って差し上げますわ」
 何となく、言ってあげたくなった。ディアスが嬉しそうに笑ってくれる。だからセリーヌも嬉しくなる。
 食事を済ませるとやっぱり暇だ。暖炉の前で、ディアスは何気無く外の景色を目に映す。その隣でセリーヌが呪紋書をめくる。
「お前の部屋、沢山本があったな。全部読んでいるのか?」
「子供の時からありますから」
「それは勤勉だな」
 そこで会話が途切れる。本を読んでいる時のセリーヌは、あまりディアスを見てくれない。
「それと宝探しと、どっちが面白い」
 話し掛けるのはいつもディアスだ。ディアスはそれが嫌いじゃない。
「難しいことを聞きますわね」
 トレジャーハントと紋章術を比べられて、セリーヌは困ったように本を閉じた。ディアスの顔に答えを探す。
「今はトレジャーハントですわね。ディアスと一緒に出来ますもの」
 そうでしょう、と目で問い掛けた。
「そうだな」
 優しく引き寄せて、ディアスはセリーヌの髪を梳く。セリーヌと一緒に過ごす、この穏やかな時間がとても好きだと、ディアスは思う。
「今日はあまり退屈そうじゃないな」
 少し嬉しそうにディアスが言うと、セリーヌは軽く笑ってディアスを見上げる。
「気が付いたんですのよ」
「何だ」
「あなたの好きな時間。だから、私も好きになれますわ」
「そうか」
 肩に置いていた手をもう一度髪に伸ばす。青みがかった銀色の髪は、静かに降り注ぐ雨に似ている。
 セリーヌはディアスの腕に凭れて目を伏せた。触れ合う唇は甘く温かい。
 こうして一緒にいるだけで、いつでも、陽だまりが溢れるような優しい想いで満たされる。
 頼りない木の葉も寒そうな秋桜も、今は穏やかで、雨雲の上の空を、人知れず陽は渡って行く。
 
 午後になっても変わらず暇だ。セリーヌは硝子戸の向こうの庭を眺めていた。
「いつ来ても花が咲いているな」
 ソファに背中を埋めて、ディアスが呟く。
「夏は百合だった。春は何が咲くんだ?」
「春は霞草。玄関の周りには石竹も」
 振り返ってセリーヌが柔らかく笑う。
「石竹か」
 初めて聞いた名前に、どんな花だ、と問い掛ける。セリーヌはディアスの隣に腰を下ろして嬉しそうに話す。
「ここに咲くのは、赤と白の絞り模様。たくさん咲きますから綺麗ですわよ」
 それだけじゃない。二人で一緒に見るから。
「春にもまた来ます?」
 ディアスの知らない花、知らない景色。もっとたくさん見せてあげたい。
「ああ、そうだな」
 いつもよりずっと優しい目で、ディアスが笑った。それから、ふと呟く。
「夜はビーフシチューが食べたい」
 本当は何でも良かったけれど、さっきそう言ったら、セリーヌはわざと拗ねたから。
「お買い物、付き合って下さいます?」
 ソファを立ってセリーヌが尋ねた。幸せそうな顔をして。
 少しだけ小降りになった雨の中で、繋いだ手は暖かく、花壇で揺れる秋桜は明日もあの場所に。陽射しの下でも、雨空の下でも。